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武力だけでは、権力掌握はかないません。 政治をつかさどる文官たちの、地道で高度なかけひきこそが、 幕府創設におけるいちばんハードな修羅場だったといえましょう。 華々しくも勇ましくもない地味な仕事に徹した彼らもエライものです。 |
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現在9名 鎌倉派:三善康信/中原親能/一条能保/大江広元/九条兼実/ 朝廷派:高階泰経/源(土御門)通親/丹後局/平知康 |
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鎌倉派 | |
みよしやすのぶ | |
京都定期便・レアな情報お届けします 享年82(1140〜1221) 鎌倉派 母:頼朝の乳母の妹/子:康俊 役職:問注所初代執事 宿老 従五位下 別名:中宮大夫属 明法・算道を伝える下級貴族の家に生まれた在京官人。生母が頼朝の乳母の妹だったことから、頼朝が伊豆に配流されている間コンスタントに月三回京都の情報を提供し続けた。頼朝旗揚げののち頼朝に招かれて鎌倉に下向、幕府の政務を任された。大江広元らとともに幕政の屋台骨として頼朝をよくサポートし、問注所の初代執事に任命された。九郎義経探索時には義経の改名「義行」が「よくいく=逃げられる」に通じるからよくないと提言した結果「義顕」に替えられた。頼朝の死後は宿老十三名に加えられ、承久の乱の折には大江広元とともに即時出撃を主張した。その年の8月、病を理由に子に問注所執事の座を譲り、ほどなく没した。 |
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なかはらちかよし | |
義経のサポート役・のち乙姫(頼朝次女)の乳母夫 享年66(1143〜1208) 鎌倉派 父:明法博士中原広季/弟:大江広元(尊卑分脈による) ※別説では父・参議藤原光能、母・中原広季の娘 役職:公文所寄人 政所公事奉行 式部大夫 行掃部頭 明法博士 京都守護 正五位下 鎌倉幕府創建時から弟大江広元とともに頼朝に協力し信任を得ていた能吏。源平合戦では頼朝の代官として九郎義経とともに入京、政治面に疎い義経を補佐した。一ノ谷合戦で義経に従い参戦したのちは後白河法皇と頼朝の連絡係として京と鎌倉を行き来した。のちには範頼軍に同行し参謀役となった。妻が頼朝の次女乙姫(三幡)の乳母をつとめていたが、頼朝の死後ほどなく乙姫も没したため出家、寂忍と号した。そののちも頼家のもとで京都守護として活躍した。 |
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いちじょうよしやす | |
超エリート・頼朝の妹婿 享年51(1147〜1197) 鎌倉派 藤原氏北家宗流 父:丹波守藤原通重/母:右大臣藤原公能の娘 正室:頼朝の同母妹 後鳥羽天皇の乳母をつとめる 息子:高能(大姫と婚姻話→破談)/娘たち:九条兼実の子良経、西園寺近経に嫁す 役職:左馬頭 右兵衛督 参議 検非違使別当 権中納言別当 従二位 頼朝の義弟であるため代官的役割を担い、京と鎌倉をつなぐパイプラインとして活躍した。腰越では彼の部下が九郎義経の郎党伊勢三郎と悶着を起こし、京都守護にあたっては謀反人義経の探索に精を出した。頼朝にも後白河法皇にも重用されたエリート能吏だったが、九条兼実の失脚に伴い勢いが衰え、建久五年(1194年)出家、保蓮と号す。その三年後、息子高能ともども急死。朱雀門の造営に携わったことが原因、とのオカルティックな噂もある。 |
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おおえひろもと | |
涙は出ない・だって政治家だもん 享年78(1148〜1225) 鎌倉派 大江家(学問法律の家)中納言匡房の曽孫 兄:中原親能 役職:公文所 政所別当 因幡・陸奥守 明法博士 兵庫頭 掃部頭 正四位下 京都にて縫殿頭、権少外記の職にあったが、頼朝に招かれ鎌倉にやってきた。以降、朝廷との折衝や幕府の創建に辣腕を振るう。守護・地頭の設置を頼朝に進言したのも彼。むしろ政治方針のほとんどは頼朝ではなく彼が決めていたといっても過言ではない?出家して覚阿と号したのちもかわらず幕府に重用された。まことに有能な官僚だが、「涙など流したことがない」きわめて非情の人物である。と、本人が言ってるんだからまちがいない。 |
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くじょうかねざね | |
朝廷内の頼朝シンパ 享年59(1149〜1207) 鎌倉派(IN朝廷) 藤原氏北家摂家相続流 法性寺関白忠通の三男/生母:太皇大后宮大進藤原仲光の娘 加賀 兄:基実/同母弟:慈円(「愚管抄」著者) 役職:内大臣 右大臣 従一位 藤原氏氏長者 摂政 関白 兄基実の近衛家に対し、九条家をたてた。平家の全盛期にあってもこれに批判的で、ずいぶん最初の頃から鎌倉の頼朝に期待を寄せていた。よって、のちに朝廷における頼朝の一番の協力者になった。しかし大姫入内計画で頼朝と決裂、それがために政敵源通親が優遇されるようになり失脚。建久二年(1202年)出家して法然に帰依した。四十年間きっちり日記(「玉葉」)をつけていた、きっと血液型A型のマメな男。頼朝びいきゆえ九郎義経にはどうしても辛辣だが、スマートに都落ちしたことなど、その勇気と仁徳については手放しで褒めている。 |
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朝廷派 | |
たかしなやすつね | |
義経びいきの後白河側近 享年72(1130〜1201) 朝廷派 後白河法皇側近 父:若狭守高階泰重/生母:修理権大夫藤原宗兼の娘 役職:検非違使 河内・出羽・摂津守 少納言 右京大夫 大蔵卿 正三位 後白河法皇側近として、法皇お気に入りの九郎義経の世話を何かと焼いた。屋島合戦の出陣前には「むざむざ無駄死にしに行くな」との法皇の意向を伝えに義経の陣を訪問している(もちろん義経はそんなこときかない)。義経都落ちののちは謀反に共謀した疑いで伊豆に流される、がのち宥恕された。 |
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みなもとのみちちか 土御門(つちみかど)通親とも | |
老獪(ろうかい)人間・早く外戚になりた〜い 享年54(1149〜1202) 朝廷派 村上源氏 久我内大臣雅通の嫡子/母:典薬助藤原行兼の娘(美福門院女房) 役職:右近衛大将 内大臣兼東宮傳 従二位 別名:源博陸(関白の異名) つねに時の権力者におもねる世渡り上手な朝廷人。和歌にも秀でていた。平治の乱後は平家に取り入り、その後は後白河の近臣として、次いで後鳥羽天皇の乳母夫として、着々と地位を固めていった。また、後白河の寵姫・丹後局と組み、政敵であり娘入内の競争相手でもある九条兼実を頼朝と離反させてツブし、さらには大姫入内計画に協力するふりをして頼朝をもだまし、台頭してくる武家社会に対して公家の知恵というか悪だくみで断固対抗しようとした。 |
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たんごのつぼね 本名:高階栄子(たかしなえいし) | |
院の恋人・黒幕のタンゴ 享年?(?〜1216) 朝廷派 父:法印澄雲※比叡山の僧(上座章尋とも) 夫:平業房(後白河法皇近臣)/息子:権中納言教成など/娘:宣陽門院(後白河の皇女) 位:従二位 後白河法皇のパートナーとして権勢をふるった寵妃。治承三年の平清盛のクーデターで夫の業房を殺されたのち後白河法皇に仕え、政治に介入するようになった。楊貴妃にもたとえられるほどの容姿と才覚の持ち主でその影響力は絶大なものだった。法皇との間には皇女(宣陽門院)も生まれた。法皇の死後も源通親と組んで政敵の九条兼実の失脚を目論むなどつねに政界の陰で暗躍した。しかし悪だくみ仲間の通親が没し後鳥羽上皇が実権を握ると、さすがに彼女の権力も衰退していった。 |
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たいらのともやす | |
打てばキレるぞ鼓の判官 享年?(?〜?) 朝廷派 父:壱岐守平知親 役職:検非違使左衛門尉 別名:壱岐判官 鼓が得手だったことから「鼓判官」と呼ばれていた公卿。上洛してきた木曽義仲に後白河法皇の使者として対面するも「打たれたり張られたりするから鼓判官というのか(笑)」とからかわれカチーンときて義仲追討を法皇に進言。院の御所である法住寺に立てこもり木曽勢と対戦した(法住寺合戦)。錦の直垂に兜だけかぶり手にはそれぞれ矛と金剛鈴を持つというヘンテコな格好で陣頭指揮を執り築地の上で踊りまくっていたため、敵からも味方からも「天狗が憑いた…」とブキミがられた。あげく大敗を喫して逃走し、その責任を問われ検非違使の職を解かれてしまう。のち文治元年(1185)に復官して九郎義経に接近するが、義経の失脚とともに再び解官される。そののちは鎌倉で源頼家に仕えるが、頼家が北条氏により幽閉されてしまったため京に戻った。 |
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